11月11日(日)

 やっと晴れた。
 寒いと思って、コートを着て、外に出たら、陽射しが眩しい。

 午後12時。嫁と、原宿の「オーバカナル」で子羊のローストにコーヒー。
 ここは最も原宿らしいお店だ。お客さんの半分近くが外人さんで、店員が 注文をフランス語でやりとりする。  有名なお店だからと、地方から来た、えなりかずきにそっくりな学生服の 子がたまに紛れ込んで、どぎまぎしている様が微笑ましいお店だ。    食後、明治神宮前から地下鉄千代田線に乗る。  この路線は、原宿に引っ越してきた6年前、手足が不自由な頃に急な階段 に、死ぬ思いをした。以来、ほとんど利用していない。リハビリが進んで、 かなり身体のほうも回復したので、ひさしぶりに乗ってもいいやと思えるま でになった。  しかも、かつて松本城のように思えた階段もきょうは楽だ。  松本城に登ったのは、この間でしょ!と、麻布方面からのツッコミが空耳 のように聞こえた。  午後1時18分。北千住駅。
 何でまた北千住なんかにと思う人も多いだろうが、北千住は松尾芭蕉ゆか りの場所。  先月27日に大津・義仲寺に芭蕉のお墓を訪ねたので、『奥の細道』の旅 立ちの場所である、千住大橋を見てみたかったのだ。 『奥の細道』自体のスタート地点は、深川。  でも松尾芭蕉は深川から舟に乗って、この千住大橋で降りて、旧日光街道 を歩いて、みちのくの旅へとでかけた。  ということはここは、歩き始めの地なわけだ。   このとき詠んだ句が、有名な「行春や 鳥啼き 魚の目は泪(なみだ)」だ。  現代語訳すれば…、 「今や春が過ぎ行こうとして、ほんとうに名残り惜しいことであるよ。行く 春との別れを惜しんで、鳥は悲しげに鳴き、魚の目は涙で曇っていることだ」。  ということになる。  自分の旅立ちにひっかけて、鳥は泣かすは、魚まで泣かすとは、芭蕉も業 腹なおっさんである。   しかし、北千住に来るなんて、何年ぶり、いや何10年ぶりだろうか。  駅ビルが大きくなって、駅前も再開発が進んでいるので、まったく昔の姿 を思い出せない。こんなに大きな町だったっけ?  いくらなんでも私も子どもの頃、こうして日本テレビ『ぶらり途中下車』 みたいな小旅行ばかりすると思ってすごしてなかったからね。  商店街を歩く。  いきなり「焼きそば」「小倉アイス」の看板が目に入る。  見つければ必ず食べる、小倉アイスである。問答無用で食べる。
 しばらく歩くと、和菓子屋さんだ。  まるでRPGの宝箱だらけのダンジョンのような町だ。  パカパカ開けちゃうぞ!
 栗の和菓子を買う。篭(かご)に入ったきれいな和菓子だ。  有名なお店なのかな。
 北千住は、奥州街道最初の宿場である。  史跡は無いかと探すがない。かろうじて本陣跡の看板はあったのだが、碑 もない。この町は生活のほうが大切で、昔を振り返る余裕なんてなかったの かもしれない。
 旧日光街道(…といっても、本来の日光街道なわけだけど)の商店街を歩 く。  格別特徴があるわけでもないが、古いお煎餅屋さんや、和菓子屋さんがぽ つんぽつんと点在する。あと10年もしたら、博物館行きになりそうなお店 も多い。  この商店街はまだまだ元気。巣鴨のようだ。
 墨堤通りを越えると、やっちゃ場通りに入った。  何でもこの通りには、昔から青物市場や川魚問屋、果物問屋などが並び、 活況を呈したという。その起源も古く、遠く織田信長の時代にできたそうだ。 織田信長の時代ということは、また徳川家康が江戸に来ていない頃ではない か!  ちょっと凄すぎるぞ。  家の前に、当時の問屋の屋号を看板に掲げていて、やっちゃ場通りを保存 しようという動きがあるようだ。
 午後2時。商店街を歩いただけなのに、ひどく疲れた。  手提げ用の小さなバッグを持ってきたせいで、身体のバランスが崩れた。 かなり自由に歩けるようになったいまも、ちょっとした左右のバランスの狂 いで、左腕がきりきりと痛くなる。恐怖感で腕が縮むのだ。  終いには、握った手に思わず力が入り過ぎて、人差し指の爪が親指にぐい ぐい食い込んで戻らなくなるから、痛い、痛い。
 ちょうどへばったところに、松尾芭蕉の「行春や 鳥啼き 魚の目は泪 (なみだ)」の俳句と、木のイスが置いてあった。 「ふい〜〜〜!」と、息を吐いて休む。  北千住から、ここまで歩いただけで息が上がるのに、松尾芭蕉の足跡を歩 いて回るということ自体、ふとどきな行為のように思えて来た。  まあ、松尾芭蕉の足跡を、即席に歩くだ。  よけいなギャグを言ってしまった気がする。    このお休み処の脇は「千住宿歴史プチテラス」であった。 「プチテラス」と控え目な名前なとおり、小さな小さな博物館だ。でもその 分、手入れがしっかりしてあって、展示物もきれいに並んでいる。
 やっちゃ場通りの繁栄が写真に残っていて、なるほどと思わせる。  ここは必見の場所だ。  いよいよ千住大橋を渡る。  その前に、千住大橋のたもとに「行春や 鳥啼き 魚の目は泪(なみだ)」 の句碑が立っていた。『奥の細道』全行程の大きな看板も立っていたんだけ ど、松尾芭蕉の石像とかは無かったなあ。
 一応、大橋公園という名がついていて、「矢立(やたて)初の碑」という らしいけど、どちらかというと、ホームレスさんが建てたお城のような住居 のほうに目を奪われる。  かなりの豪邸で、けっこう電化製品も揃っている。人間の生命力の凄さを 感じますなあ。  千住大橋を渡る。
 水色の無粋な鉄橋で、途中から交通量が増えたのだろう。南千住から北千 住に向う側は、鉄橋で、反対車線は高速道路のようになっている。まったく 美観を損ねているのだが、それだけ交通量の緩和のほうが急務だったのだろ う。  安藤広重の有名な絵の面影すらない。  午後2時30分。千住大橋を渡ってしばらく行くと、素盞雄(すさのお) 神社があった。「素盞雄(すさのお)」とはまた、すごい漢字だねえ。
 やっぱり神社側も考えたんだろうねえ。あちこちの看板にも「すさのお 神社」と平仮名で表記してあった。当然だろう。  この神社にも芭蕉の句碑があった。  ここで、千住大橋の旅は終わり。  あとは、三ノ輪から都電に乗って帰るか、南千住まで行って、JR常磐 線で帰るかだ。  都電は何度も早稲田から、三ノ輪まで乗っているので、南千住まで歩く ことにした。  ずいぶんと寂れた商店街だ。日曜日で、お休みなのだろう。  それにしても、この商店街の垂れ幕にあった「コツ通り商店街」の「コ ツ」とはいったい何だろう。不思議な名前だ。まさか「骨(こつ)」じゃ ないだろうしなあ。  げげっ。「骨(こつ)」であった。  あとで調べたら、ここで何10個もの骨が出土したという。この辺に処 刑場があったせいとも、関東大震災のせいともいうけど、道路の拡張工事 をしたときに、たくさん人骨がでたという。  それにしても、そんな縁起の悪い名前を商店街の名前にするか?  しかもこの拡張工事以来、この町は寂れているそうだ。よけいダメじゃ ん!  早く名前を変えたほうがいい。  ボーン・ストリート。それじゃまた「骨」だ!  午後3時。南千住駅へ。
 ほう。常磐新線を建設中か。早くできるといいな。  おお! 地下鉄の駅もあるのか。日比谷線? へそ曲がりな私は地下鉄 のほうを選ぶ。常磐線では帰り方に変化が無い。  しかし、へそ曲がりなのは、地下鉄南千住駅のほうだった。  地下鉄の駅だというのに、エスカレーターと階段で、3階まで上がらせ るではないか! どこが地下鉄なんじゃい! えっ? 営団日比谷線であ って、地下鉄とは言っていない? 好きにせいっ!  それより、ホームから広大なJR貨物の操車場跡を見ることができた。 こっちのほうがうれしい。レールが扇状に伸びる様は美しい。
 午後3時30分。六本木駅で降りて、喫茶店にも行かず、あおい書店に 寄る。  このところ、必死に本棚の本を読んで、本棚を虫食い状態にしてやるん だ!と意気込んでいるんだけど、仕事用の資料を読むと、そこから派生す る事物についての知識がほしくなって、また本を買ってしまう。いたちご っこだ。  鎌倉の書庫にまだ余裕があるとはいえ、原宿の家に、本を置くところが もう無い。片っ端から読むしかない。  午後4時30分。帰宅。  電車のなかで読んでいた『電波少年最終回』(土屋敏男・日本テレビ) は、やっぱりおもしろかった。  ここでも「人柄が大事」と書かれてあった。  およそすべての素晴らしい娯楽作品の源は、製作者たちの「人柄」が最 も大切だってことだろうなあ。精進せねば。  午後6時。原宿の家から近い飲食店がもう一軒できた。 「DOUP CAFE」という居酒屋さんっぽい、飲食店。  茄子のボロネーゼがけっこう美味しかった。  お酒も飲めるし、コーヒーもあるしで、緊急用にキープ!  今夜も並み居る本と格闘! 多勢に無勢の感あり!
 

-(c)2001/SAKUMA-